宮下紘一さん 2010年卒
駒澤大学経済学部4年
駒澤大学陸上競技部
横浜市立緑ヶ丘中学校出身
―まず、箱根駅伝、お疲れさまでした!テレビで応援していました!初めての箱根、いかがでしたか?
宮下:意外とあまり緊張しなかったんですよ。往路1区でキャプテンが出遅れてしまったので、遅れを取り戻そうと思って走りましたが、目標としていたタイムが出なかったのが悔しかったです。大八木監督に後ろから「白バイを抜け!」と言われたことが印象に残っています(笑)。「無理です!」って思って走っていました(笑)。
―そうなんですか!テレビでは、とても落ち着いているように見えました。ではさっそく、駒大高校に入学した理由を教えてください。
宮下:中学生の時から陸上競技をやっていましたが、県大会に出るのが精一杯というレベルで、あまり強い選手ではありませんでした。そんな時、駒大高校の先生から、「うちで陸上をやらないか」と声をかけていただき、「箱根駅伝で有名な駒澤大学に内部進学できる」という理由で選びました。その時はもちろん、大学で陸上を続けるなんて思っていませんでしたし、ましてや箱根駅伝に自分が出ることになるとは夢にも思っていませんでした。
―中学校時代は無名選手だったということですが、高校に入ってどうやって力をつけたのですか?
宮下:駒大高校の陸上競技部では、駒澤大学の陸上競技部出身のコーチの丁寧なご指導のもと、のびのびやらせてもらう中で、自分たちでメニューを考え実行するなど、自主性が芽生えていきました。3年生になりキャプテンを任され、自分たちが伸びるためにはどうしたらいいのか、何が足りないのか、ということを突き詰めて考え、実行できるようになりました。リーダーシップとともに、積極性もつけることができたと思います。
―駒大高校陸上競技部で印象深かったことを教えてください。
宮下:やはり、3000M障害での南関東大会優勝と、インターハイ出場ですね。それから、高校のうちから駒澤大学の練習に参加させてもらえたことは印象深いです。大学の選手たちはレベルが高く驚くとともに、自分の力のなさを痛感させられた経験でした。
―大学へ進学してからはどんな苦労がありましたか?
宮下:とにかく色々な意味でボロボロでした…。周りは全国から来た有名選手ばかりで、自分のレベルの低さを感じました。寮では先輩と同部屋で、上下関係が厳しいことに驚きました。どこへ行っても気を抜く時間がなく、つらかったです。
―その時、自分を支えてくれたものは何だったのですか?
宮下:駒澤大学の陸上競技部は、1年間で選手が半数に減ってしまうほどの厳しい部です。私も厳しさに負けそうな時もありましたが、高校の友人たちや先生、そして親が「頑張れ」と送り出してくれたことを思い出し、期待に応えたい一心で踏ん張れたと思います。それから、高校の陸上競技部のコーチが、大学へ進学してからも何かと気にかけてこまめに連絡をくださっていたので、恩返しをしたいという気持ちは強かったですね。
―日々、心がけていたことを教えてください。
宮下:私は3000M障害を専門にしていたのですが、「関東インカレ」、「箱根駅伝」など、それぞれの目標を明確に意識するようにしていました。目の前の目標を達成するために、自分にいま何が足りないのか、それを補うために何をすべきか、じっくり考えながら練習に取り組むように心がけていました。これは、高校時代の陸上部での経験から培ったものです。その習慣が、箱根駅伝や関東インカレ2部優勝という結果につながったのだと思っています。
―箱根駅伝の翌日、駒大高校陸上競技部の合宿に参加して下さったと聞きました。駒大高校の生徒たちや、これを読んでいる中学生や高校生にメッセージをお願いします!
宮下:生徒たちからは、「強くなりたい」という気持ちを感じました。それを結果につなげるために、先ほども言ったように、その時々で目標を明確に定め、自己を深く分析しながら練習に取り組んでほしいと思っています。
―今春、社会人として一歩を踏み出されるわけですが、今後の抱負をお願いします。
宮下:私はここで陸上競技から引退し、一般企業で営業職に就きます。厳しい4年間を通じ、ちょっとやそっとではへこたれない、あきらめない気持ちを身につけられたと思います。大八木監督にいただいた「人に応援してもらえるような選手になれ」という言葉を胸に、新たなフィールドで、色々な方に応援していただけるような仕事をしていきたいと思っています!
―ありがとうございました!箱根駅伝での宮下さんの雄姿に憧れて駒大高校を志望してくれた中学生もいると聞いています。これからも新たな場所でご活躍くださいね!